2012年3月23日金曜日

百済寺跡・・・(百済寺跡の松風・枚方八景その三)

国の特別史跡「百済寺跡」で建物の跡が発掘され説明会がありますよと広報があり興味を持ったのですが生憎都合が悪く行くことが出来ませんでした。
テレビなどで遺跡発掘の様子などは見たことはありますが、実際にはないので見てみようかと思いたって行く事にしました。
それに「枚方八景の松風」も一緒にですね。



この石段を上がった上に百済寺はありました
               
















中宮にある「百済寺跡」は8世紀後半百済王族の末裔である百済王氏(くだらのこにきしうじ)が
難波から交野ヶ原のこの地に移り、一族の氏寺として建立したといわれています。
平安時代には一族の娘を桓武天皇・嵯峨天皇の後宮とし、繁栄をえたのだそうです。
昨年の秋に「京都時代まつり」を見に行った折の行列に「平安婦人の列」がありその一人に
百済王明信という婦人がいましたが桓武天皇の皇子の初恋の人だとか・・・・・
お寺は中世に焼失しましたが、「百済王神社」は今もあります。





出土品が並べてありました














訪れた日も調査をされてみえましたが、手落ちがないように緻密な手仕事で大変なご苦労です。




昭和40年から史跡公園として整備され、寺の遺構が復元され金堂の周りの回廊跡には自然の
老松のなかに黒松や赤松が補植されその頃の思いを馳せられます。



百済王神社
百済王神社拝殿













百済王神社本殿



百済王氏の祖霊を祀る神社です。
百済王神社本殿が興福寺と一体的なものであった春日大社の社殿を移建したものとみられており
「春日移し」といわれています。



回廊跡には樹木が植えられており、少し高くなっている所が金堂跡の柱なのでしょうか?











趣のある松があって面白い!
堂々と広がった松の下にいると何だか優しさに包まれているようで気持ちが穏やかになっていく
この空間って癒されるのかな・・・・・


車の止めてある通路の向こう側でおばあちゃんが側溝に沿って綺麗に咲いた花の手入れをしてみえたので、花の名前を尋ねてみると「においスミレ」と教えてくださり、ご親切に苗も下さったのです。
早速帰ってプランタンに植えましたが、そのうちにベランダが香りでいっぱーいになる事でしょう。


2012年3月22日木曜日

意賀美神社・・・(枚方八景その二)

朝、目を覚まし窓を全開です「おー寒い」と震えながらの深呼吸で私の1日が始まります。
春を告げるうぐいすの初音が竹やぶの中から聞こえてきましたが今年の鶯の音は最高・・・・
枚方公園駅から小道を10分程小高い丘に向かって歩いていくと頂上に枚方八景の一つである
「意賀美神社」があり梅を見に今か今かと3回も行っていますが、今年の厳しい寒さに一向に咲く気配も無くやきもき・・・・・・
「梅に鶯」今日は大丈夫梅の花も楽しめそうで出かけてみまた。

意賀美神社一の鳥居

13重石塔
ここには万年寺というお寺があったそうです。
言い伝えによると推古天皇の時代に高句麗の僧が唐の林岸江に似ている事から草庵を営んだのが万年寺の始まりで明治の神仏分離令により意賀美神社が遷てきました。
この13重の石塔だけが往時をしのばせています。












万年寺の跡はこの様な梅林になり毎年3月には梅祭りが行われて賑うそうです。

意賀美神社拝殿
二の鳥居をくぐり石段を上がっていくと意賀美神社があります。
「高龗大神」がお祀りされており、水の神さまで淀川鎮守の神様だそうです。


説明がないのでよく分かりませんが、何とも時代を感じさせられる狛犬が置かれていました。


梅林から左へ降りるとそこには御殿屋敷跡があります。



豊臣秀吉は京と大阪を結ぶ要所である枚方に「御茶屋御殿」を建て立ち寄ったと言われています。
城主の娘「乙御前」を住まわせていたとも言われています。
1679年の枚方宿の火事で全焼したのだそうです。


秀吉公もきっと豪華絢爛の御殿から眺めていたであろう淀川と対岸の「天王山」をどういう気持ちで
眺めていたのでしょうか・・・・・。


梅はまだ7部咲き今年はいつまでも寒く震災で苦しんでいる方に2重の苦労を強ている。
せめて暖かい春よ早く訪れてよと願います。


2012年3月11日日曜日

城南宮の梅

城南宮の梅が見ごろですという事で行ってみました。
期待は裏切られることなく、香ただよい見事な枝に咲く花は絵画の如く圧巻でしたよ。


白川、鳥羽上皇によって平安時代に「鳥羽離宮」を造営され、熊野詣出立の地とし行き帰り750キロ淀川を天満橋まで舟で下り、中辺路を越え熊野本宮へ詣でたのだそうです。
京都御所の裏鬼門を守る神とされたことから「方除の大社」として信仰されるようになったのだそうです。また城南とは平安京の南にあることからその様に呼ばれましたとか。

拝殿
築山は城南(鳥羽)離宮の数少ない遺構のひとつで「春の山」と呼ばれています。
ここからは梅の花の美しさに見とれるばかりです・・・・・。















うっとりと酔い痴れる幸せなひと時・・・・・・。


この広い庭園には沢山の種類の椿も見ごろでした。
木の花で一番好きなのが椿の花です、と言うことで私のブログは「わびすけ」なんですよ!



「城南椿」濃く赤いつつ形の椿で私の好みの色と形です。


この椿は始めて見ました「加茂本阿弥」と言う名前が付いていましたが、この様な咲き方を椀咲き
と言うそうですが、なんとも気品があると思いませんか。
300本ほどあるそうですが今日は梅が主役です、2つの椿だけにに登場してもらいました。


昭和36年の第二室戸台風で倒れた杉の大樹をこうして保護していると権禰宜の方が教えて下さいましたが、このときの台風ではおおくの人が犠牲になったと聞きますからこうして祀られているのかなと勝手な推測をしていました。


「曲水宴」はテレビで見たことがありますが、平安時代の衣装を身に纏い歌を詠み流れくる盃の酒を
飲みなんとも優雅な宴がここでも披露されるそうです。


お薄を一服いただき一休みです。立派な赤松、黒松が池を囲み鯉も悠悠たる姿です。


「枯山水」の石庭を歩く頃には今にも雪がちらついてきそうで雲行きが怪しげに、本当に坐禅や瞑想
するには御誂え向きの空気が漂うような・・・・・


美しいものを見るとどうでしょう?心も豊かにいつの間にかスマイリング・・・・・。
いつも笑顔を絶やさないでいよう、そしてこれからも頑張っていこう!!

2012年3月6日火曜日

米こうじ&二人でのんびり東山

お友達が「塩こうじ」を作ったからと頂き、サラダに炒め物にと入れてみるとなんとマイルドでとても
美味しい。
本もお借りして読んだところ、麴には不思議な力があることが書かれており、
以前「菌」が主人公のおもしろい漫画本を借りて読んだ事があり「こうじ」の力にはすごーく興味を
持ったのです・・・・・・。
昨年の秋に美術館の帰り道に京都で「大阪屋」とは面白いから寄ってみましようとカフェもあり夫と
2人で立ち寄ったお店が「生こうじ」を販売していたことを思い出し、そういえば地元の編集の方が「味噌の作り方」の取材をしていましたね。
お友達も「みやこめっせ」に行ってみたいということで2人で三条へ行くこととなりました。

白川橋
白川橋の袂に道標が立っていました。
これは京都では最古の道標という事らしいです。
「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と書かれています。




「大阪屋こうじ店」ここで生こうじ、赤味噌など数点お買い上げ、売切れてしまうのを恐れ早々買ったのですが重ーいお預かりOKで一安心です。
お友達が行ってみたいという「みやこめっせ」へGO
「朱鳥舞」1996年

「みやこめっせ」の入り口には大きなモニュメントがありました。
「朱鳥舞」 清水九兵衛作
この方は京焼の清水六兵衛の養子になり1981年7代清水六兵衛を襲名、2000年に長男の方が
八代清水六兵衛を襲名された後は彫刻に専念されたそうです。















平安神社への参道にある大鳥居は24.2mの
高さがあり国の登録有形文化財に登録されています。


のんびり歩いていると今まで気付かなかったものに出会います。


















また「大阪屋こうじ店」まで戻って一休み、彼女は「ミルク甘酒ラテ」を私は「京白味噌の雑煮」を
いただきましたが甘くて蕩けるようなお餅もおいしかったです。
ラテのお味の表現は難しいが「甘酒でしょう」と言ってましたよ。

また来た道を戻って歩いていると彼女が「大将軍神社て書いてあるよ、写真撮りたいでしょー」と言うのでまた寄り道です。


大将軍神社
私達二人「大将軍」て誰でしょう何て言いながら鳥居を潜って行ってみました。
大将軍は方位の吉凶を司る八将神の魔王天王とも呼ばれ神さまでした。
桓武天皇が平安京(794年)遷都の際大将軍を祭神とする4つの大将軍神社を四方におき、
都を邪霊の侵入から防ぐ重要な神社とされていたのだそうです。


相殿に関白藤原兼家公をお祀りしてありました。




藤原兼家邸は応仁の乱で廃壊したが東三条社として名跡を残しています。




樹齢800年と伝える銀杏の大樹があり、かっては鵺の森とよばれていたそうでが、今ではここの
境内にその面影はありませんでしたが、平安京の薄暗い中に鵺の声を聞けばそら恐ろしや・・・・・。


神馬は伊勢神宮をお参りすると見たような記憶がありますが、ここではこの様に馬の像でした。
神馬祈願のために奉納された馬ですが、多くの神社でもこうして等身大の馬の像をもって
神馬とすることが多く、絵馬などにおきかわっていったのだそうです。
この神馬、私のアングルが・・・・・ちょっとユーモラスでしょう。

「生こうじ」を買う目的がこんなに有意義な1日になりました。
いつも出かけた時は和菓子のおみやげですが、今日は鯖すしになりました。
これがまた美味しくて居酒屋さんのお寿司とは思えないほど、女将さんのおしゃる通りでした。
今度はお店へ行ってみたくなりましたね。


2012年3月3日土曜日

「樟葉宮跡の杜」・・・(枚方八景その一)

今日は3月3日お雛まつりです。、春雨の中休みか絶好の外出日和なので以前から聞いていた
「樟葉宮」へ行ってみる事にしました。
車を「市民の森」へ置き、住宅地の中の細い道を行くと丸く盛り上がった森が目に入りました。


一の鳥居(神明鳥居と言うそうです)
「交野天神社」への参道です。きれいに掃き清められた砂に朝方まで降った雨のしずくが水玉模様を描いてきれい!!


一体これは何~に?説明がないので・・・・


交野天神社」と掲げてある二の鳥居(明神鳥居といいます)がありました。



二の鳥居を潜って左へと折れると手水所があり、ここには三の鳥居がありました。
立派な木造の明神鳥居です。
鳥居は神域への「門」と言われていますから、ここまで3つの門を潜ってくると言うことは神秘の世界かな?


三の鳥居から見る交野天神社。
787年創建され桓武天皇の父光仁天皇を天神として祀ったのがはじまりとされています。



拝殿の格子の間から奥の本殿を撮らせていただく。
本殿は一間社流造りで桧皮葺です、鎌倉時代(1238年)室町時代(1401年)に修理されました。






交野天神社拝殿の彫刻











彫刻などは繊細で美しく室町時代初期の頃の様式をよく示しているのだそうです。


交野天神社本殿(国重要文化財)

交野天神社の正式名は「カタノアマツカミノヤシロ」と言うのだそうです。
右側の小さいお社は交野天神社末社八幡神社本殿です。

サルノコシカケ?

大きな木の根っこの辺りに「サルノコシカケ」に似た物が、これは珍重され漢方薬に使われている
物だとばかり思っていましたが、なんと被害も少なくないらしく古木などを倒木
させてしまうような菌が関係していると言うことです。
そういえば沢山の樹木が倒れていたのは・・・ 

貴船天神社への参道




此処から右の方へ50mこの辺りは大昔から
原生林を残し木漏れ陽が厚くおおう落ち葉の上に洩れまわりは神秘的な空気が
漂よっているな・・・・・










貴船神社
このあたりが「樟葉宮」跡の杜です。
階段を少し上がった所に小さい祠があり「日本書紀」によると継体天皇(26代天皇)は507年に「樟葉宮」で即位をされ、19年後526年大和に都をおくまで20年もかかておりこの時代の混乱が
あったことを示唆している。
祭神は継体天皇。高龗神(たかおかみのかみ)さまは古くから祈雨の神として、また料理業や水を扱う職業の人から信仰をあつめています。
『くもらじな ますみの鏡 かげそふる くすはの宮の 春の夜の月』と関白左大臣一条実経が詠んで歌の石碑がありました。(続古今和歌集)



アラカシの木

祠の前のには大きなアラカシの木2本が大空に達するがようにドーンと、なんと威風堂々としていて惹かれました。
カシといえばアラカシを指すほど関西には多い木なのだそうです。




少し歩くと「鏡伝池」があります。古来観月の名所で一条実経が樟葉宮から見たこの池に映る月を
詠んだのではないのかと想いを巡らします・・・・・
原生林のなかを平安貴族が鷹狩りをした後に鷹の姿を池の水に映す慣わしがあったと言われていた池であったのかもしれませんね?


かわせみ
「かわせみ」はホバリングをしていて一瞬です水中降下上手に嘴で川海老を取ってくるのです。
とても美しい鳥でカップルで餌取りに勤しんでいてかわいく感動ものです。
こんなに近くで「かわせみ」を見られるとは本当に夢のようなうれしい出来事なのでした。






池の廻りにはカメラマンがシャターチャンスを狙い多くのおじさん族が時間も忘れ心一つにして
いい写真が撮れる機会を待っていました。
帰り道にお友達のお家に寄って「雛すしと菜の花のおひたし」を頂いて美味しい夕食になんて幸せな
1日だったでしょう。